しろがねの大きなシンクが胸にある汚れちまったらただ流すだけ
伊藤さんにならって「シンク」を多義的に捉えれば、「シンク」は「(キッチン)シンク」であり、「辛苦」でもある。胸にシンクを持つことは大事なことだ。暴言のつぶてをぶつけられたとき、陰湿ないやがらせをうけたとき、手ひどく裏切られたとき、失敗を悔い悩むとき、胸の底に「辛苦」が沈殿する。だが、「シンク」があれば溜まった澱を洗い流せる。流せば、シンクはまたからっぽになる。そもそも人生に「辛苦」のないほうがいいのか。いやいや、そんなことはないだろう。「辛苦」は歌の種にもなるし。人間の彫りを深くするし。皆さんは、胸に「シンク/辛苦」を持っていますか?
作者/加古陽(かこよう)

1962年、愛知県生まれ。「心の花」「微文積文」会員。東京新聞編集委員。第54回角川短歌賞次席。歌集『夜明けのニュースデスク』(前川佐美雄賞・筑紫歌壇賞)。歌書『一首のものがたり』(日本歌人クラブ評論賞)

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